【第七回】尖閣諸島を守るということは、日本を守るということ。

東シナ海に浮かぶ尖閣諸島

この島々をめぐって、いまも緊迫した現場が続いています。
現場を守っているのは、沖縄県・石垣島にある第11管区海上保安本部の「尖閣警備専従部隊」。約600人の隊員が、10隻の警備船で昼夜を問わず警戒を続けています。

彼らが対峙しているのは、中国の「中国海警局」という準軍事組織です。
もともとは日本の海上保安庁を模して設立された機関ですが、現在は中国共産党の中央軍事委員会の指揮下に置かれ、人民解放軍と連携して動く“準軍隊”となっています。

その中国海警局の武装船が、今や連日のように日本の領海へ侵入してきています。
しかも近年では、76ミリ速射砲、40ミリ・20ミリ機関砲を備えた重武装の船が、4〜8隻同時に尖閣諸島周辺へ出没するようになりました。
2025年5月には、ついに中国海警船からヘリコプターが発進し、日本の領空にまで侵犯するという、極めて深刻な事態も発生しています。

このような動きに対し、私たちは「強い抗議」だけではなく、実質的な防衛戦略の再構築を急がなければなりません。
海上保安庁だけではもう守りきれない。
現場で危険と隣り合わせの隊員たちに、責任を丸投げする時代は終わらせるべきです。

尖閣諸島に根付いた日本の歴史と産業

尖閣諸島は1895年1月14日、明治政府によって正式に日本領に編入されました。
きっかけとなったのは、福岡県八女の商人・古賀辰四郎氏の存在です。

彼は八女茶の貿易の途中で尖閣諸島を発見し、「この島々を活用できないか」と考え、沖縄県とともに10年間の調査を行いました。
その結果、いずれの国にも属していない無主地であると確認され、正式に日本の領土となったのです。
かつて尖閣諸島には約250人・99世帯が暮らし、アホウドリの羽毛採取やカツオ漁と鰹節工場が営まれていました。
魚釣島では、痛みやすいカツオを現地で加工するという、非常に合理的な産業が築かれていたのです。

しかし1940年、戦争の影が濃くなり、燃料不足から工場は閉鎖、島民は退去。
その後は無人島となり、1972年の沖縄返還を経て、再び日本の施政下に置かれています。

現在、魚釣島・大正島・北小島・南小島は国有地、久場島は民有地を国が借り上げ、すべて国の管理下にあります。

なぜ中国は尖閣諸島を欲しがるのか?

中国が尖閣諸島の領有を主張し始めたのは1971年。
当初の理由は「東シナ海の油田利権」とされていました。

しかし、時代とともにその目的は大きく変化してきました。
中国が世界の貿易大国となる中、海上交通の要衝としての尖閣諸島の価値が高まりました。特に米中対立が深まる中で、アメリカと日本が影響力を持つ東シナ海で“制海権”を握りたいという思惑が強まっています。

そして今、最も深刻な狙いが浮かび上がっています。
それは、尖閣諸島を台湾侵攻の拠点とすることです。中国は南シナ海で人工島を建設し、軍事拠点化に成功しました。
しかし、日米が厳重に監視する東シナ海では人工島の建設が困難。
そこで狙いを定めたのが、既に存在する島である尖閣諸島なのです。ここを手中に収め、そこから北東側へ向けて台湾侵攻を進める構図は、すでに中国国内で軍事戦略として検討されていると見られています。

尖閣諸島を守ることは、台湾と東アジアの平和を守ること━━━

尖閣諸島を守り抜くということは、日本の国益を守るだけではありません。
それは、台湾を守り、そして東アジアの平和を守るということにつながります。
海上保安庁だけに任せるのではなく、政治・外交・防衛のすべての分野が連携し、国家としての総合力で対応していくことが急務です。

私は、尖閣諸島の現状をもっと多くの国民に知っていただきたいと考えています。
そして「一つの無人島の話」ではなく、私たちの生活と未来を守るための大切な問題として、一緒に考えていただけたらと願っています。

尖閣諸島をめぐる現実は、もはや見過ごせる段階ではありません。

だからこそ私は、政治の力でこの国の海を、暮らしを、そして未来を守りたい。
尖閣諸島を守る―それは、私たちの覚悟の象徴です。

いま、この国に必要なのは、声を上げ、行動する政治です。

そのために、政治の道を歩む決意をしました。

この記事を書いた人

山田 ヨシヒコ

学習院大学経済学部を卒業後、東洋信託銀行㈱にて都市開発および債券トレーディングを担当。
その後、財団法人日本船舶振興会に勤務し、海洋問題や造船技術開発を担当。2009年に東海大学教授に就任し、2019年から2023年まで、東海大学学長補佐・静岡キャンパス長を務める。国土交通省や東京都をはじめ、各機関において政策アドバイザーを歴任。